◎戦時労務動員―日本人と朝鮮人はどう違うのか

 2018年10月30日の韓国大法院判決以来、戦時下に動員された韓国人被害者の問題が注目を集め、「徴用工」という言葉を目にすることが増えました。戦時中にさまざまな動員が行われたことは、学校でも教えられるので、まったく知らないという人はいないでしょう。
 戦時下は日本人も動員され大変だったのに、なぜ朝鮮人の被害ばかりが問題にされるのか、という疑問を持つ人も少なくないかもしれません。
 しかし、資料に基づいた最新の研究では、労務動員のあり方は日本人と朝鮮人では大きく異なることが分かっています。朝鮮人の動員と、日本人の動員のどこが異なるのかを確認していきましょう。

朝鮮からの動員

 まず、植民地である朝鮮の労務動員の全体像について説明します。
 
 「動員」と言える基準としては、①政府の正式決定で、②朝鮮総督府など行政職員が要員の取りまとめに関与した、という二つの要素があります。
 1939年から45年の敗戦まで、当時の日本政府は、労務動員計画あるいは国民動員計画という名の計画(以下、動員計画)を内閣で決定しています。
 
 動員計画には、朝鮮半島からどれくらいの人員を日本内地に移動させるかの数字が掲げられていました。それに基づき、39年9月からは朝鮮総督府が認めた企業の「募集」、42年2月からは「官斡旋(かんあっせん)」と呼ばれる村役場の職員や警官らが協力した人員の取りまとめ、さらに44年9月からは国家総動員法第4条・国民徴用令による動員、つまり「徴用」が行われました。
 

用語 開始年月
 募集  1939年9月から
 官斡旋(かんあっせん)  1942年2月から
 徴用  1944年9月から

 
 朝鮮総督府の認可のもとでの企業による「募集」も、実態としては村役場の役人が協力しながら進められたものでした。
 動員計画による日本内地等への朝鮮人の送出は、各種動員のなかでも重視されていました。それなしには戦争は続けられなかったのです。その数は、戦後に日本政府がまとめた『日本人の海外活動に関する歴史的調査』によると、72万4787人。
 
 朝鮮総督府の役人の関与のもと、「女子挺身隊(ていしんたい)」や「勤労報国隊」として動員された人もいました。このほか、一般的な労働者ではなく、軍人・軍属、さらには「慰安婦」として動員された人びともいます。軍属とは、軍人の下、軍で働く民間の要員のことです。
 
 戦後に厚生省がまとめた資料によれば、1938年以降に募集された志願兵と、44年と45年に実施された徴兵で兵士となった朝鮮人は、合わせて20万9279人とされています。ただし、これより多数であったとする資料もあります。なお、「慰安婦」や朝鮮内の動員については、まとまった統計が見つかってないため不明です。

日本での動員

 これに対して、日本人の戦時労務動員は、国家総動員法第4条・国民徴用令に基づく「徴用」がほとんどでした。外務省『終戦史録』には、45年8月時点の被徴用者数が616万4156人、動員学徒数192万人7376人、女子挺身隊47万2573人という統計が記されています。
 
 国家総動員法に基づく徴用では、ある事業所の特定の業務に就かせることを政府が文書で命令します。命令に従わないと懲役や罰金が科せられる、まさしく強制です。
ただし、1945年8月時点の被徴用者455万4598人のほとんどは、すでにその職場に働いている人に同じ仕事を続けることを命令するものでした。これを「現員徴用」と言います。また、現員徴用以外の「新規徴用」も、官公署や設備が整っていることを政府が認めた工場に配置していました。いきなり炭鉱や土木工事現場などに徴用されることはなかったのです。
 
徴用される人の選定も、段階を踏んで進められました。必要な人員の4、5倍の人数を呼び出し、適性や家庭の事情などを考慮した上で人選を決定したのです。さすがに徴用されるのはかわいそうだという事情を抱えた人は、地域の有力者が口をきいて外してもらうこともあったとされます。
 
 日本での動員では、新規徴用は1943年がピークでした。翌44年には、本土決戦や工場の移転などに向けて大々的に動員の規模が拡大します。
 新たな動員は、学生や未婚の女子が対象で、彼らは通常、家から通える範囲の工場等で仕事をしていました。農村ではむしろ、離村を防止し農業生産を続けさせる要員を指定する政策がとられました。

動員の方法も配置先も違う

それでは、日本人と朝鮮人の動員では、実態としてどのような違いがあったのでしょうか。
 
一つには、動員の方法が違います。
朝鮮人の動員の特徴は、本人や家族にとっても、予期せぬいきなりの動員、国家権力が個人に対して行う強制的なものだったということです。
 
朝鮮の「募集」や「官斡旋」は、朝鮮総督府が突然、あるムラを選定して、そこで1週間程度のうちに、50人から100人という一定の人数を集めるという方式でした。もちろんそれでも、「炭鉱で働く気がないか」といった勧誘で、必要な人員が集まればいいかもしれません。しかし、いつもそう簡単にことが運ぶはずもなく、結局、集まらなければ圧力を加える、脅す、あるいは法的根拠なしで呼び出して、そのまま企業に引き渡すということになります。
 
また、朝鮮での徴用では、必要要員の何倍かを集めた上で適性や事情を考慮して選考を行うといったことはありませんでした。他の場所で働くことなどまったく考えたこともなかった農民に、いきなりの動員命令が下される、というケースが、朝鮮では一般的だったのです。
 
もう一つは、動員された後の配置先が違います。
日本に連れて来られた朝鮮人は、多くの場合、炭鉱・鉱山、港湾荷役、土建工事現場に送られました。それらは、安全対策も十分ではなく長時間の肉体労働を強いる、今日の用語でいえば3K職場で、しかも場合によっては、タコ部屋とか監獄部屋と言われた、ヤクザまがいの者が労働者を管理し、リンチも横行しているような、今日のブラック企業以上のブラック企業の事業所です。
 

朝鮮人には補償がなかった

 日本での動員と、朝鮮人の動員では、制度的なあり方も異なりました。
 日本人の戦時労務動員は、国家総動員法第4条・国民徴用令に基づく「徴用」がほとんどでしたが、一方、朝鮮での動員の多くは、「徴用」ではなくて「募集」や「官斡旋」でした。
 一見、日本人よりも朝鮮人の方が、ソフトな動員であったかのように思われるかもしれません。しかし現実には、それは逆の意味を持っていました。なぜでしょうか。
 
 「徴用」は国民徴用令に基づく法的命令ですから、動員された人びとやその家族の生活について政府が責任を持つことになっています。そのため、日本での労務動員においては、給与が下がればその減少分を穴埋めする、家族と別居することになった場合は別居手当を出す、といった政策がとられました。戦争末期には、家族が徴用されて困窮した家庭にお金を出す施策も取られています。もちろん、業務上の事故での負傷、死亡した場合などの補償もありました。当時、これらを援護施策と呼んでいました。
 
 これに対して、朝鮮人の場合、法的命令としての動員である「徴用」ではないケースが多いため、朝鮮人のケースは、動員されても日本人のような援護施策の対象にはなりません。さらに言えば、動員法・徴用令に基づく徴用であっても、植民地であるために援護の措置が行き渡らなかったことが分かっています。朝鮮総督府は、徴用が始まった後も、労務管理を改善させるという「カラ約束」を行いながら、やはり、炭鉱・鉱山などの厳しい職場への動員を続けました。

植民地と本国の違い

 そもそも、戦前、戦中の日本では、本国の日本人と植民地の朝鮮人とでは根本的な違いがあります。それは、労務動員の法制度、計画の決定、運営に朝鮮人はほとんど関与していなかったということです。
 
 当時の日本でも男子普通選挙が行われており、有権者は政治に対して自分の意思をそれなりに反映させることができました。
 
 一方、植民地支配を受ける側である朝鮮人は、日本の政治に自分の意思を反映させることはできません。一部には日本内地に居住して参政権を有していた人もいますが、ごくごく少数です。当然、戦時動員の制度・政策作りにも関与できません。
 
 動員計画の策定について見ても、朝鮮人の意見を聞く場が設定されることもなければ、そこに関与した主要な官僚のなかに朝鮮人がいたわけでもありません。
当時の朝鮮人たちは、自らの判断や選択を、選挙などを通じて政治に反映させることもできず、日本人が一方的に決めた政策によって、戦争を下支えする過酷な労働に駆り出されたのです。これが植民地支配の現実です。

戦後の各種補償からも排除

 そして、1945年以降の日本の各種補償らも、朝鮮人は除外されてきました。52年の日本の主権回復時に、植民地出身者は日本国籍を失ったためです。国家総動員法に基づく動員業務のなかで病気やケガをしたとしても、日本国籍を持っていなければ、補償の対象になりません。
 
 確かに、戦争では日本人も多くの人が動員され、様々な被害を受けました。個々のケースを見ていけば、21世紀に生きているわたしたちには信じがたいようなひどい待遇を受けていた日本人の被動員者がいる一方で、朝鮮人でも戦時中としてはそんなに悪くない生活を送っていた人もいるでしょう。
 
 しかし、だからといって、朝鮮人の動員も日本人の動員も同じことであって問題ない、と考えるとすれば誤りです。
 
 当時の朝鮮人は日本人と同じ権利を持つ主体とは見なされておらず、戦時中の動員政策においては、配置先、援護施策、要員確保の方法すべてで、明確な差別がありました。その結果、朝鮮人に対しては、当時の法でも許されないような著しい人権侵害やむき出しの暴力、朝鮮人の生活の困窮が多発したことは、日本側の証言、資料からも明らかです。
 
 朝鮮人の動員は、植民地支配を前提にした強制連行、強制労働だったのです。近年、「徴用工」という語が盛んに使われており、当サイトでも分かりやすさを考えてこれを使っていますが、正確な表現を選ぶのであれば、強制連行・強制労働被害者と呼ぶ方が、歴史的な実態に即していると言えるでしょう。

2020年6月14日)

 
 
about us

このサイトでは、「徴用工」問題=戦時強制動員問題をめぐる論議を、研究成果や判例などの「ファクト」に沿って、可能な限り交通整理してみるものです。私たちは、日本の言論空間に混じり散らばっている「言葉のガラクタ」を片付け、真摯な議論を始められる環境をつくりたいと考えています。

2018年10月の韓国大法院(最高裁)判決を受け、被告である日本企業の資産の「現金化」が、大きな注目を集めています。独り歩きしている「現金化」問題について、法的観点から整理してみましょう。

強制動員・強制労働を行った政府と企業が共に出資した基金を創設し、財団を通じて動員被害者に補償を行う――そうしたかたちで解決を実現したのが、第2次世界大戦時に日本の同盟国であったドイツです。

日本のメディアの中では、大法院の元徴用工勝訴判決は文在寅政権が出させたものだ、という説が広がっています。しかし、この「文在寅による判決」説には、相当な無理があります。荒唐無稽と言ってもよいかもしれません。

最新の研究では、労務動員のあり方は日本人と朝鮮人では大きく異なることが分かっています。朝鮮人の動員と、日本人の動員のどこが異なるのかを確認していきましょう。

2019年7月、韓国で『反日種族主義』という本が刊行され、話題になりました。同年11月には日本でも翻訳本が出て、出版社によれば2020年1月時点で40万部が売れているそうです。

2021年4月27日、日本政府が閣議決定した「衆議院議員馬場伸幸君提出『強制連行』『強制労働』という表現に関する質問に対する答弁書」を検証します。

「朝鮮人の労務動員は、強制労働条約が認める強制労働ではない」という日本政府の主張は、強制労働条約の間違った解釈の上に成り立っており、国際社会で認められるものではありません。なぜそう言えるのでしょうか。